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    『カラクリヌード新潟組公演』の小屋付きをしてきました

    • 2016.10.17 Monday
    • 12:57
    月曜担当の後藤です。
    遅ればせながら、カラクリヌード新潟組公演の小屋付きをした時、運良く観劇もさせていただくことができましたので、感想を書きます。

    この感想文は多くの批評とネタバレを含みます。
    それでもいいという方だけ読んでください。

    えんとつシアターでハムプロさんの、要するに本家の上演映像を試写会で初めて観たとき、ハムプロさんの作品で一番好きだと感じたのがこの『カラクリヌード』。

    新潟組公演はその原作へのリスペクトと役者の気持ちの入った演技がとても良かった。
    舞台作品のみならず、原作がある作品というのはどうしても原作への敬意がわかる形でないと物足りないと感じてしまうのだが、この公演は申し分なかった。

    役者の演技は良い意味でも悪い意味でも気になる所が多く、なんだかでこぼこしていたが、本人達が全力でやっているのが観ていて伝わったし、やれることを素直にやろうとしていた。
    この気持ちの出し方は美しいし、下手にかっこよくやろうとしていないのがグッと来た。
    もはやここまでくると何もいらない、十分とさえ、その時は思えた。

    総じて観応えのある舞台作品なのだが、リコ役のほのかにも言ったがやっぱりパワーが足りない。
    多分本人達も自覚しているし、演出をはじめ裏方組も思うところあったのではなかろうか。
    くどいが役者は十分に演じきっている。
    演出も原作と惜しみなく向き合っている。
    やれることはやりきっているはずだ。

    思うに、もう少し時間が必要だった。
    単純にリミットが早すぎた。
    もっと時間さえあれば、足りないパワーをトレーニングして付けることができた。
    それは、気持ちの出せる量をコントロールすることであり、技術力でもある。
    本番を意識することで、稽古中のように声が響かないえんとつシアターで、声を枯らしたりすることもなかったし、声や動きを合わせるシーンもさらに良くなっただろう。
    原作と向き合うことに手一杯で、演出と役者の向き合う時間が足りなかったためのパワー不足だった気がする。
    誤解してほしくないのは、演出と役者が向き合っていないと言っているわけではない。
    本番中に必要十分なパワーを得るためには、まだまだ時間を積み立てしておいたほうが良かった。

    個人的に、一番いい演技をしていたと思うのはナラカスミさん。
    幸せの呪いのシーン。母の子に対する思い。この役者さんを知る機会がこの舞台で良かった。

    えんとつ村で一緒に運営をしたほのかの演技も美しかった。
    「動き」ではなく、その役の「行動」になっていた。
    リコも微笑んでいるだろう。

    最後にゼロスケの落語機能について。
    僕はあれを12000メートル落下の伏線と考えていて、オチをつけて笑わせる=リコに笑ってもらうためにオチた、と解釈している。
    多分正解はないと思うのだが、この辺の解釈も演劇の楽しみとして僕は受け止めている。
    思い込みの屁理屈かもしれないが。

    『君の名は。』を観てきました

    • 2016.10.10 Monday
    • 12:24

    月曜担当の後藤です。
    約一週間前に新海誠監督の映画『君の名は。』を観てきました。
    もはや説明不要の作品ですが、あの『シン・ゴジラ』の興業収入を抜いたというニュースを聞いてからというもの、『シン・ゴジラ』こそ今年ナンバー1だと思っていた僕は半信半疑で映画館へ向かいました。
    評判は評判。どんな作品なのかこの目で確かめてやる、と。

    この感想文は多くの批評とネタバレを含みます。
    それでもいいという方だけ読んでください。

    正直、この映画に関しては『シン・ゴジラ』の予告でしか知る機会がなく、主人公の人格が入れ替わって、なんか人が大勢死ぬかもしれない事件が終盤で発生するんだけど、入れ替わりによってうまくそいつを解決してハッピーエンドなんだろう、と漠然と思っていた。
    そもそも人格の入れ替わり自体、散々使われてきた設定なだけに、「大体予想がつくな」と高を括っていた僕はふんぞり返って席に着いた。

    しかし、上演が始まってすぐに僕は作品に引き込まれる。
    まずオープニングがあるではないか!
    アニメ作品だから当たり前かもしれないが、僕はオープニングのあるアニメ映画をあまり観た記憶がない。
    それがまた、RADWIMPSの曲と共に小気味良くシーンが移り変わり、情報が、伏線が、テンポ良く紹介されていくではないか!
    序盤のここで僕のこの作品を観る姿勢は変わった。
    「あ、これいいやつだ」と気づかされたのだ。

    主人公は二人。前半は、この二人が不定期に起こる人格の入れ替わりに戸惑いながらも、なんとか互いの生活を成り立たせるというものになっている。
    「糸守町」という田舎町で神社の巫をしている高校生、宮水三葉。
    この子の家族構成がまた特殊で、父親が町長、母親は既に他界、そして神社の現役当主の祖母が母親代わりとなって、三葉と、妹の四葉を育ててきたのだそうだ。
    もう一人は東京で暮らす高校生、立花瀧。
    二人とも愛すべき性格をしているだけに、成り立っているのか崩れているのかよくわからない入れ替わり生活を送ることになる。

    本題はここからだ。
    ティアマト彗星の地球接近。
    人格の入れ替わりが設定の作品は大体上記のような感じになる。
    しかし、この映画の最初に観るシーンは、彗星が割れ、二つに別れた一方が地球に落ちてくるところなのだ。
    そして、その別れた彗星の破片が落ちてくる場所こそ、宮水三葉の住む「糸守町」なのだ。
    さらに彗星衝突事件は三年前(だったと思う)に起こった災害で、当然三葉も事件現場にいたため既に死んでおり、瀧くんは三年という時空を越えて、死ぬ前の三葉と入れ替わっていたことを知る。

    なんだ、この展開は・・・。
    呆気に取られている脳裏では、『シン・ゴジラ』を観た時の予告映像が思い返されていた。
    「このままだと皆死ぬ」、と三葉が同級生に打ち明けるシーンが確かにあった。
    実際、その時は入れ替わっていて、瀧くんが三葉の人格になっていたわけだが。

    結論から言うと彗星からの避難はこれによって成功する。
    その過程がまたドラマチックで、住民全員を避難させるためにはどうしても父親である町長の力が必要になるのだが、瀧くんの入れ替わった状態の三葉が説得しても全く話を聞いてもらえず、それどころか正体を見抜かれてしまうというシーンがある。
    無情だが、当然の力不足だ。三葉と父親は仲が良くないのだが、どんなに仲が悪くても、親子は親子。ここに新海誠の「なめるな」というメッセージを感じる。
    最後は入れ替わっていない三葉がもう一度説得し、その真剣さに父親は町長の権限を使った。
    外見ではなく魂に心が動かされるいいシーンだ。

    ラストは、東京の階段で二人が出会うシーンで終わるのだが、もっとも感動すべきこのシーン以上に僕が感動したのは、三葉の祖母の「結び」の説明のシーンだ。
    宮水神社の御神体に「口食み酒」をお供えに向かう途中、森羅万象を糸に例えて祖母の一葉は孫達に話すのだが、その内容が、先月上演したAccendereさんの『半神』と凄くリンクしていたため、感極まった僕はそのシーンで号泣。
    僕以外は誰も泣いていない。
    涙を堪えた矢先、宮水神社の御神体登場でさらに号泣。
    さらにさらに、これ以降、要所要所で「半分」を意識した演出が散りばめられ、半神』をやった僕にはそれらが神々しく見えた。
    この映画に関わった全員に感謝したいが、真っ先にお礼を言いたいのは御神体のシーンを担当した名も知らぬ方々だろう。

    『君の名は。』。観て損はない。意味や伏線がわからなくても、とにかく凄いと思えるはず。
    これは単なる人格入れ替わりラブストーリーではなく、半分と半分が結びつく片割れの物語り。


    『半神』無事公演を終えました

    • 2016.10.03 Monday
    • 12:21
    月曜担当の後藤です。
    遅ればせながら、ようやくこのお知らせを書いています。

    『半神』の全ステージを終え、月をまたいで10月になってしまいました。
    ご来場された皆さん、月並みですみませんが、ご来場していただき本当にありがとうございました。
    全ステージ7回全て満席にしていただいて感無量です。
    公演が終わってからも皆さんから直接話してもらった感想、SNS上の意見、厳しいものも優しいものも、合わせて精一杯聞かせていただきました。
    僕はAccendere団員ではありませんが、「自分に言ってもらったもの」と勝手に受け止めて、自分の演技の肥やしにそれらを無断でさせていただきます。
    大目に見ていただけると有り難いです。

    また、今回の『半神』は僕がやりたいといつしか夢描いていた目標を高らかに越え、あそこまで思いに思いが重なって届いた、言わば「特異点」とも言うべき完成度となり、終わってからは色んなメンバーが言うように夢の中にいる気分でした。

    そして先日、映画の『君の名は。』を観て、この公演に参加した後に観ることができて良かったと思ったし、あの映画の言葉を借りるなら、すごく「結び」というものを意識しました。
    もっとも『君の名は。』に関しては別の機会に感想を書く予定なのでこの辺で。

    さて、肝心の『半神』本編に関しては、様々な考察が観た方々の中に眠っていると思うのですが、どれも正解で「あり」なんだと僕は認めます。
    その上で、僕なりの考えを『霧笛』のネタバレも交えて書きますので、自己判断で読み進んでください。

    僕なりに思ったのは、「白いゴム毬の吹く赤い道」「風の赤道」= 「血液中を流れる白血球」「血管」であり、「ゲーリューオーン」=「シュラとマリアの元となった卵子に入った二つの精子」ではないかということです。

    特に、化け物の一角「ユニコーン」を演じていたから気になるのかもしれませんが、「ゲーリューオーンがいるのになぜ六つ目の角がないなんていう話になるんだ?」という疑問が稽古中も何回か浮上しました。
    僕なりの今の答えは上記の考えであり、劇中に台詞で登場する名作『霧笛』の内容にも繋がるのではないかと考えています。

    霧笛の音を仲間の声だと思った怪獣が、霧の海の中、灯台に向かって近づいていく。
    でも実際は、怪獣の仲間たちは遠い昔に滅んでいて、ずっと海の底で眠っていたその一匹だけが、灯台を仲間と勘違いして近寄ってしまう。
    最後には霧笛も鳴らなくなり、怒った怪獣が灯台を壊してしまう、という話だったと思いますが、違っていたらごめんなさい。

    ゲーリューオーンとは、この『霧笛』に登場する怪獣であり、現実に例えれば卵子を目指して泳ぐ精子、そしてシュラとマリアは灯台であり、霧笛を鳴らし精子を呼び、この世に生まれたいと願う卵子。
    ただ、二つの精子が同時に命として育ち、あろうことかシャム双生児となってしまった。
    孤独に怯え、怒りのままに灯台を壊した怪獣のように異形の姿になってしまった。
    『半神』とは、片割れが人であり、もう片割れが人ならざる者であること。
    シュラとマリアの容姿だけでなく、人として孤独に産まれることを悩んだゲーリューオーンの正体もこのタイトルに含まれているのではないでしょうか。

    長々と書きましたがあくまで僕の考えなので、参考にしていただける方が一人でもいてくれたら嬉しいです。

    これからしばらくは半神の思い出と共に生活することになりますが、後になっても忘れず残る作品の思い出というのは、経験をした自分へのご褒美であり、とても贅沢で、尊く感じます。
    この経験をくれたAccendereの皆さん、協力してくれた多くの皆さん、そして改めて、観に来ていただいた皆さん、本当にありがとうございました!

    万感。
    この二文字で締めさせてください。



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